大学の歴史
現在に至るまで
私は岩手県陸前高田で生まれ、小さなときから機械いじりが好きでした。
小学1年のとき買ってもらったおもちゃのヘリコプターの押すとプロペラが回る仕組みが見たくて、その日の内に分解して大目玉。
4年生の時に、動かない腕時計をカミソリの刃を使って分解し組み立てたら動いた。鉱石ラジオを組み立てて木に登って聞こえた記憶も同年見た映画(銀座の恋の物語)の中の、卓上ピアノが欲しくて中学3年の就学旅行で見つけ買って帰ったことも。
5年生の頃小学校の講堂で、こまどり姉妹のショーが有り、窓によじ登っていたら、関係者の女性に「危ないから中でごらんなさい」と入場券が無いのに見せてくれました。
初給料で買ったのは、姉妹の全集レコードでした。少しお礼出来たかと思いましたが、機会があり姉妹に直接言えたのは約50年後でした。最近発売になった姉妹のDVDのパッケージに小さく私が写っています。
中学では自転車にエンジンを付けて松原の堤防を走ったことや、技術の先生が分解したエンジンを組み立てられず、私を呼びに来たこともありました。
中学卒業後、浅草の電気店に就職。18歳の時に同期入社した大卒の社長の息子に負けたくないと受けた「松下電器の技能オリンピック」で台東区で一位東京都で4位になり、全国大会まで行ったこともありました。(大阪が会場で、右上の写真の中で世界の選ばれた人たちで、競いましたが、敢闘賞でした)帰りに工事中の万博会場を見学や、大阪から東京までの豪華客船での移動も、すべてが夢の中のようでした。そんな話を聞いた叔父から「独立して店を出したら」と言われ、お客様だった浅香光代(東京の母と思っている方)に相談すると「チャンスはめったにない、若いのだからやり直しだって出来るからやってみなさいと」励まされ独立を決意しました。
成人式を受けたその年に、練馬に電気店を開店しました。業界の会合や旅行へ参加すると「お父さんの代理で来たの」等としばらく言われました。二十歳そこそこでは社長とは思われませんよね。
テレビのCMに参加した時の写真がありますが(黒柳徹子とサンダー杉山)中心で電気店主が周りに数十人、一人変わったのが私で、今見ても代理に参加しているようにしか見えません。
数年後あるお客様が「今夜修理してほしいものがあるから」と言われて行くと、民謡教室の最中で騙される様に入会しました。仲間に入ってみると楽しくなり、その後付き合いで行った店で、まだカラオケの無い時代で、ピアノで伴奏をしてくれるところだったのですが、強引に進められ歌ったら拍手喝采。
人前で歌い褒められる快感を知ってからは、よく歌えそうな店に出かけては得意になっていました。
その後、仲間の一人がカラオケの店を出すから手伝ってと言われ、テープレコーダーでカラオケの曲を探して歌わせる仕事を手伝いました。たまにお客様のリクエストがあり、自信のある曲を歌ったり、可愛い女性とデュエットするのが楽しく有頂天になっていたある日「あなたの歌は何を歌っても民謡調だ」と言われ大ショックでした。
しばらくは悩みましたが、録音して研究の結果、デュエットすると、歌詞の中の二人を演じられるようになりました。当然一緒に歌って欲しいと指名されたり、時には初めて一緒に歌った女性との歌を聴いていた友人に、関係を疑われたりすることもありました。母親と来ていた娘さんと歌ったときには、次の日に電話が有り、娘は結婚している、幸せに暮らしている家庭を壊すのか、二人は出来ている、自分の目は節穴ではないとおしかりを受けたこともありました。ペアで来店されているお客様は、避けていましたが、まさかな事が起きました。娘さんといってもキャバレー上がりの人、お互いに見つめ合いながら、なりきって歌ったから、勘違いされても仕方ないと、後で苦笑いしましたが、ほどほどに。
その後交通事故に遭い、6ヵ月近く仕事が出来ず悩んでいた時に、知っているスナックが売りに出ていることを、民謡で知り合った友人に話したら、買ったらどうかと。ほとんど預金も無かったので不安を訴えると、銀行は命までは取らない、どうしても駄目なら手放せばいいと、銀行に掛け合って保証人にまで成ってくれました。
居抜きのスナック酒が飲めず経験の無い私でしたが、自分で小さなステージを作り、家庭用の機器でも歌いやすく、スピードを変えずに音程を変える装置(キーチエンジャー)もいち早く導入し曲も多いと評判になりました。私のやる事に関心を持っていたお客さんが、駅の近くに大きな店を出したいので、店の設計や設備を手伝って欲しいと、(電気関係は自分店から買ってあげるし、週一回の定休日は、自分の店として使って良いからと言われ)試行錯誤しながらも、軌道に乗せたとたん、あんたの力はもういらないからと、ある日関係を切られたこともありました。経営者はともかく、お店は自分の作品のようで、駅の近くで歌うならと、お客様にはその後も勧めました。だってチーママは私の紹介した人でしたし、経営者の親戚の人もいましたが、私の見方でした。
その後ブームになるカラオケ教室を始めたり、廃物を使って、世界で一番小さいミニカラオケボックスを作ったときは、業界新聞で全国に紹介されたり、テレビの取材を受けたりしました。アメリカのテレビで見たと言われた事も有りました。その後スナックは4階のビルに建て替え、カラオケボックスと中華食堂を併設して、埼玉テレビのカラオケ一番に参加するなど頑張ってきましたが、現在はカラオケ喫茶だけの店になっています。
縁があって知り合った皆さんと、健康に良い楽しいことを企画して、ボケ防止のためにも、新曲や歌えなかった曲もチャレンジ、末永くデュエットできる相手にめぐり会える日を夢見て、頑張っていきますのでよろしくお願いします。